鷲田清一「感覚の幽い風景」

感覚の幽い風景

「つながっていたい」というのは、いうまでもなく、まだ「死なない」でいようということだ。いいかえると、「つながっていたい」という気持ちには「生きる」ということの肯定がまだ前提として成り立っているということだ。この肯定の感情を棄てていないというのは救いである。なぜなら、そもそも生きるということそのことを肯定する感情がなければ、「切れる」という想い、痛いという感情がそもそも成り立たないからだ。裏切りや暴行への倫理的なブレーキが効かないからだ。
けれども、そういうひとたちに向かって、「つながり」や「ぬくもり」の大切さを説くのは、よろしくない。というのも、「つながり」や「ぬくもり」の欠落により深くさらされているのがほかならぬ彼/彼女らであり、その欠落の理解をともにしてくれるひとがいるということにこそ彼/彼女らは渇いているのだ。

子どもたちや十代のひとたちは、じぶんをじぶんとして「このままで」肯定してくれる友だちや恋人を、これまでのどの時代よりも強く求めるようになっているらしい。だれかとつながっていたいという言葉もそこから出てきているようにおもわれてならない。じぶんを肯定できるかどうか、そのことじたいに大きな不安を感じているのが、いまの子どもたちではないか。大人たちが別の文脈から「つながり」の大切さを言うときには、いまの子どもたちの「つながっていたい」という気持ちの裏面にはこうした他者との遮断の認識が強くあることを見逃してはならないようにおもう。

 教材として取り上げられたりして、専門用語があったとしても表現を砕いてくれているので理  解しやすい文章、そして文体もしなやかさを持っているのでついメモしておきたくなるものが多 かったです。後半はファッションについてのことだったりして、ちょっとほほえましいところもあ りました。

妖しさだけで構成されたアイテムがある。パンティストッキングやボディスーツが発明されたあとも滅びることのなかったあの誘惑の三点セット、黒のブラジャーとガーターとストッキングの取り合わせである。これは、言ってみれば「身体の象徴的切断」だけを狙っているアイテムだ。

 差し挟まれる、田村尚子さんによる写真にもひきつけられてしまって、そこから意味が浮き出て きそうになって困りました。