「今」に対する野沢さんの文章をもう読めないのだと思うと、とても残念です。この本が出てから十年以上経って、ここ数年は邦画の選択肢も興行収入も増えてきたので、彼がそれについてどう思うのか、知りたかったです。
虎の門における井筒さんのコーナー、「こちとら自腹じゃ」のように自分で金を払って劇場に映画を見に行くというスタンスは同じなのですが、作品だけではなくお客さんの反応まで観察しているところがとても面白かったです。批評家さんたちは試写で見たりするので彼らとは違った視点で論が展開されていって、目のつけどころも井筒さんのような監督でもないので非常に興味深いものでした。脚本家という立ち位置についてや、映画を製作するにあたっての裏側も垣間見えて紹介された作品をどれもこれも見たくなってしまいました。
その中で印象的だったのは、評論家の寺脇研さんに対する反論文。

ヤスい感動にすっかり乗せられたレベルの低い観客、と言うのは本当に簡単だと思う。だってあなた方は、そういう人種と別次元で生きていけばいいんだから。揶揄することも気楽でしょう。作り手側にいる僕はそうはいかない。ほんの一時、彼らに絶望したとしても、カッコよく言えば、彼らを啓蒙していかなくてはならない。その作業をするには、差し当たって、映画を見せる相手はどういう連中なのか、一六〇〇円払う観客を、かたわらで見た方が、まるで見ないよりはいいのではないか、と思うのだ。
あなたが言いたいことは、どんな映画にだってそれを喜ぶ連中はあらかじめいるのだから、そういう愚にもつかない連中のリアクションを一六〇〇円払って確かめることに何の意味があるんだろうか、ということなんだろう。
でも、その考え方は辛い。僕はそこまで冷徹に割り切ることはできない。それを全面的に認めてしまうと、自分の映画を見に来て「イイ映画でしたね!」と一言残して帰っていく観客に対して、顔じゃ笑っていても内心では「てめえらバカに分かんのか?」と冷笑しなければならない。それは悲しすぎる。

自分が関わった作品であっても、関係のある人が撮った作品であっても、野沢さんは厳しいことも飄々と正直に書いているように思えて、負担も結構あったのだろうなあと推し量らずにはいられませんでした。