りはめより100倍恐ろしい

りはめより100倍恐ろしい

作者が現場に身をおいているからなのか、観察眼がとても鋭い。拙いなと思ってしまったり部分部分できになるところはあったものの、途中からそれを気にさせなくしてしまうぐらいぐっと引き込んでしまう描写がありました。昔先生が「上手い文章」と「良い文章」は違うと言っていたことを思い出して、確かに技術はいくらでも磨いていけるけれど、焦点の定め方や摘み取るシーンなど、経験だけでは生まれてこないものもあって、作品を超えてそれぞれ読者に何かを考えさせる力を持っているこの作品を書いた人が高校生だったことに少なからず驚きました。最後はちょっとあざといかなと思いましたが普通に終わるよりも一癖も二癖もあった方が好きなので、もやっとしながらにやっとしてしまいました。
「いじめられる」のではなく「いじられる」ということ、それはとても現代的であって、昨日会った生徒たちにおいてもその傾向は見られました。塾においての男の子たちはいじる側といじられる側に分かれていて、いつもはつるんでいてもいじられる側にも優劣があるようでした。いじめではないからパシりをさせたりはしないし、きつい暴力を与えたりもしない、ただゆるゆるとした苦しみが続くだけ。救いは一番いじられていた子が違う中学で、察しが少し悪かったこと、かもしれません。
思い返してみれば色々と見えてくるものがあって、あの教室の中で成り立っていた世界の深さをいまさらながら知りました。昨日会った数人の中にいたいじられ側だった子は相変わらず軽くいじられていて、でもそれがする方もされる方も多少大人の接し方となっていたので、中学生など思春期特有のものなのかもしれないな、という結論に行き当たりかけたのですが他の方の感想をちらっと見ていて描かれていたのが中学生ではなく高校生だったことに自分の勘違いを知り、今も彼らはそこにいるのだろうか、受験生なのでさすがにそんな遊びは消えているのだろうか、と現実を知りたくなりました。
時代を感じさせる表現が多く、等身大の言葉を使っているのであまり文学作品、という受け入れ方をされないかもしれませんが、木堂さんのこれからが非常に楽しみです。