ASIAN JAPANESE〈3〉 (新潮文庫)

ASIAN JAPANESE〈3〉 (新潮文庫)

小林紀晴さんの本、というか様々な国を旅したことが記してある本を好むのには、私が外国へ一人で行く勇気がないのだからと気づいたのは、数年まえのことでした。国内ならば一人でも、いや一人の方が自分のペースを守れるのでのんびりしながら旅をできるのですが、言葉の通じない国へ一人で放り出された時に、どうなってしまうのか自分でも想像がつかないから逃げ腰になってしまうのでしょう。本を読んで疑似体験をすることで少しの満足を得て、実際の景色やそこの温度や音は決してわからないけれど、頭の中で行ったことのない場所を思い描く作業は結構楽しくもあります。
そして彼の本の場合、読んでいると不意に泣きたくなってしまうようなことがありました。写真家である小林さんは写真だけではなく文章のスケッチも個性があって、私は彼の書く文章に幾度となく感情を揺るがせました。漠然とした疑問はもやもやしたままで、それがこの三巻で少しずつ形になってきたように思えました。
私のルーツはどこにあるのだろう。私が戻る場所はどこにあるのだろう。読みすすめながら様々なことを思い、最後の締めの部分を読み終わって鳥肌を立てながら、旅立ちもしないから私は戻る場所がないのかもしれない、という答えが出てきました。

海のない県で生まれ育って、実家から離れたことが一度もありません。適度に都会で適度に田舎で、近所は住宅街なので生まれた時からほとんど変わっていません。栄えていない駅から徒歩だと三十分強。畑や林が住宅に変わっても、梅雨が近づくにつれてどこかからカエルの合唱が聞こえてくる、それが私の住んでいる町。小学校が遠かったので三十分近く歩いていた記憶があって、たぶんその時に住宅街に挟まれたたくさんの小道を見たので、路地に興味を持ったのでしょう。東京へは一時間以内で行けて、少し自転車で飛ばせば一面畑のところへ行きつきます。けれど海も山もなくて、これといった特徴もありません。
そして私には田舎というものがありません。お盆も正月も我が家を離れることがなくて、自分の血をたどった先はどこなのだろう、と考えることでしか答えは出てきません。地方から出てきた人の「田舎に帰る」という言葉がうらやましくてなりません。私は日常の中に「帰る」ことが含まれているため、非日常としての「帰る」がどこにもないからです。だからこそ小林さんやこの本で出てくる人々に興味を持つのかもしれませんし、三巻に出てきた人のように戻る場所を探してみたいのかもしれません。私が戻りたい場所はどこなのだろう、「ここだ」という場所に出会えるのはいつなのだろう。
旅をすることは嫌いではないですし、観光をするよりもその場所の日常に触れてみたいという気持ちは強くあります。でもそこに住むという選択をまだ出すことはできません。それは今住んでいる場所がそれなりに良くて、一人暮しするとしても趣味を味わえる東京都内にしようと思っていることもありますし、旅行地を家にする感覚が全然想像できていないからだと思います。何度か足を運んでいる京都も旅行するから楽しいのであって、日常となってしまったら今の感覚が崩れてしまうだろうという恐れがあるため、滞在はしても住むことはしないのでしょう。

どっちつかずな私のルーツ、今の私の過程が行く先、ここだと思える場所。さほど束縛されていないので旅に出ることはいつでも可能なのにそれを躊躇ってしまうのは、臆病な面が出てしまっているからです。けれど(笑)がつくような自分探しの旅だと言われても一歩を踏み出せるだけの勇気は、タイミングである日突然湧き上がってくるものなのかもしれません。路地裏が好き、神社が好き、土の匂いが好き、家でだらだらするのが好き、目的地もなく迷い続けるのも好き。どれもこれも自分の一部分で、それが日常として許される今のこの場所をもっと客観的に見られないかぎり、ぬるま湯からはあがることができません。