語り始めたら止まらない犬のこと。家にいる犬よりもずっと前から知っている、けれど彼なのか彼女なのかわからないその犬は私が大学生の頃から見かけるようになった。自転車で駅まで向かう途中の、一方通行の狭い道路をとぼとぼと歩いていて、赤い首輪をしていた。最初のうちは凛々しく、歩き方もしゃんとしているように見えた。苦手な私は遠回りして彼か彼女の様子を毎日のように見ていた。秋田犬かな、と漠然とした種類しかわからなかった。
日に日に犬は汚れていって、栗色だった毛は黒さを増し、どろのような色になっていた。歩き方もとぼとぼとしていたけれど首輪はずっとそのままで、駐車場で寝ているところをよく通り過ぎた。今年も冬を越せたのか、と姿を見て安心して、すぐ近くの食べ物屋から何かもらっているらしいところを見てもっと安心した。
今年の冬も無事乗り切った彼か彼女の姿を夏になってから見なくなった。一週間に一度ということもあったので時間が合わなくなっただけだろうと思っていたのに、一ヶ月以上見る事がなかった。あまりの暑さにもしかして、ということも想像してしまった。触ったこともなく名前も性別さえ知らない犬のことなのに、自転車に乗ると無意識に探すようになっていた。何年も生きていたのだから、大往生だったのかもしれないと、自分を無理矢理納得させたりもした。
今日もひいこらと自転車をこいでゆるやかな坂を下り始めた時、視界に黒い物体が目に入った。ゴミ袋かと思ったら動いているので、横目で様子をさぐってみた。と、そこにいたのは闇にまぎれてさらに黒くなった犬だった。距離をとらず、すぐそばを通って凝視した。まぎれもなくあの犬だった。生きていた。今も犬を好きにはなれないけれど、あふれてしまう感情があった。よかった。
家に帰ると自転車をしまう音に反応して犬が吠えた。我が家の犬はもっと好きになれないものの、性別のわからないあの犬については長年の付き合いもあって情が移ってしまっているのかもしれない。言葉はいらないし、接触さえ必要なかった。